舞台裏探訪の4回目は、「伊藤熹朔記念賞」とのコラボレーション企画の第2弾です。今回は同じく3冠を達成しているもう1人、加藤登美子さんの受賞作品にまつわるお話をお届けします。
vol.4 加藤 登美子(かとう とみこ) 伊藤熹朔賞の三冠受賞者
06/30/2022
5月末、盛況のうちに贈賞式が終了しました「伊藤熹朔記念賞」を顧みまして、長い間様々なエリアで活躍されている加藤登美子さんにお話を伺いました。加藤さんは1996年に「わたしの夢は舞う〜会津八一博士の恋」で新人賞を、2011年には「扉の向こう側」で奨励賞を受賞しました。そして最後の伊藤熹朔賞の2018年には遂に「小さなエイヨルフ」で本賞を授与されました。
今回の舞台裏探訪ではとても興味深いバックグランドを持ち、多くの分野で活躍されている加藤さんのこれまでの歴史と受賞作品にまつわる楽しいお話をお届けします。
インタビュー:ピッコロシアターにて(10.26.2021)
|| 世の中は学生演劇ブームで、大学内の劇団と共に芝居漬けの日々でした。
ーーーまず生い立ちから——出身はどちらでしょうか?
加藤 F1 で有名な三重県の鈴鹿になります。今住んでいる関西、というよりは愛知の方に近い文化圏です。
ーーーどんな子供でしたか?幼少の頃からアート・演劇方面に興味があったのでしょうか?
加藤 3歳の頃から日本舞踊をやっていましたので、何かしらの関わりはあったと思います。生まれたのは高度経済成長の時で、周りを見ても習い事をしている子供は多かったと思います。
ーーー姿勢がとても良いですね。日本舞踊は納得です。どのくらいされたのですか?
加藤 長続きする性格なのか、結局30代半ばまで続けました。頭で考えるものではなく、体で覚えて表現していくものなので、単純に踊っていたかったんだと思います。20代前半に師範職を取るところまで行きましたが、その後は舞台美術とバックパッカーの旅にのめり込んでしまったので、段々と関わりが薄くなっていきました。
ーーーご家庭の環境がアート寄りだったとか?
加藤 実家は商売をしていたこともあり、常に大勢の人たちが住み込みや出入りをしていました。ですので、すごく活気に満ちたおおらかな家でしたね。青春時代と戦時中が重なった母は、自分ができなかった分、私には日本舞踊をはじめ様々な事にトライさせてくれました。 父はどちらかと言うと静かで風流な趣味人。絵画、華道、茶道をやっていて、その影響もあり中学の頃には美術にも興味を持つようになりました。そして祖母は近所の男衆を率いて色んな行事を仕切ったり、戦後すぐに祖父を連れ出して海外旅行にも行くパワフルな性格の人でした。
ーーー何やらすごく興味深い家庭環境ですね(笑)。
加藤 はい(笑)。それで高校生の時に学校の演劇部の人たちがとても面白そうで、つい入部してしまいました。美術も好きで、日本舞踊もやっていましたので自然な成り行きでした。そして大学進学を考えることになるのですが、当時は実家がある田舎ではまだ「女はすぐに嫁に行け」「クリスマスケーキにはなるな」という風潮がありまして…
ーーーどういう意味ですか?
加藤 女性は 25 歳ーーつまりクリスマスケーキを食べる 25 日ーーまで売れ残るなという意味なんですけど、…ですから 4年生大学は歳をとるし、頭でっかちになるから行くな、と。
ーーーやるせない話ですね。
加藤 本当に! でもそんな世の中の空気を読まずに4年生の芸大に行きました。
ーーーそうして入った大学生活はどうでした?大阪芸大ですよね。
加藤 楽しい日々でした。当時あった民営の女子寮みたいなところに芸大の女子ばかりで住んでいました。行きつけの男子寮というものがあって(笑)、授業の後、そこに皆んなで遊びに行って一晩中しゃべりたおして、朝方だけ帰って寝て、また授業にいく毎日でした。本当に信じられないくらい楽しかった…
ーーー謳歌してますね(笑)。演劇活動はその頃から?
加藤 2年生の頃からですね。その頃は学年内で劇団がバンバン出来たんですけど、同学年の演技演出コースの子たちが中心で「お芝居研究友の会」なるものが出来て、スタッフは照明・美術コースの子達に声がかかかり、私もその内の1人でした。
劇団☆新感線の井上くんも同級生だったので 一緒にやったり、この頃に今も続いている南河内万歳一座の内藤くんに誘われて、南海ホール(※後の心斎橋 2 丁目劇場、現 Base よしもと)で旗揚げ公演をしましたね。その時は私と他の友達と女子 4 人組で大道具製作、小道具、衣裳など全ての美術をやっていました。
ーーーレジェンド級の名前が出てきますね。
加藤 その頃梅田の阪急ファイブにオレンジルームという場所があり、そこが学生演劇のメッカだったんです。元々会議室だったんですけど、学生演劇の連中が 1 年中ずっと公演やって占領してましたね。70年代にファッション、サブカル、アメリカの文化がどっと入ってきて、とても元気のいいバブルの前夜期でとにかくエネルギーに溢れていましたね。世の中は学生演劇ブームで、大学内の劇団と共に芝居漬けの日々でした。それから京都にあった第三舞台や他の学生劇団などにも呼ばれたりしました。
ーーー羨ましい時代です。
それから大学生の時に、後々お世話になる演出の秋浜悟史(あきはま さとし)先生と舞台美術の板坂晋治(いたさか しんじ)先生にも出逢います。私は芝居を秋浜先生に、舞台美術を板坂先生に学んだと思っています。
ーーー大学の時にそのような大切な出会いがあったのですね。
加藤 秋浜先生はもともと東北出身で東京にいらしたんですが、私が大学に入る年に大阪芸大の教授になられました。私は先生の演技の実習クラスに関係がないのによく遊びに行っていて面識がありました。そして内藤くんが秋浜先生の大のお気に入りで、南河内万歳一座の公演は必ず観にきてくださって、色々と話をしてくださいました。
板坂先生は実習がありましたから、それこそ色んなことを学びましたね。とても美しいデザイン画を描く方で、特に色の美しさを教わったと思います。それから私の作品に対してすごく心に響くアドバイスをしてくださいました。
ーーー他に何かエピソードはありますか?
加藤 舞台美術とはあまり関係がないのですが、授業は真面目に出ていたお陰で演劇論の座学の教授にも気に入られて、ある時、テレビ局で絵を描く仕事があるからと声をかけられてABC放送に行きました。その先生がABC放送の大阪で人気のあった長寿番組「部長刑事」のプロデューサー(!)で、セットの玩具屋のシャッターの絵を頼まれて、当時ブームだった襟巻きとかげの絵を描きました。ギャラをもらって帰ろうとしたら台本の中の女子大学生役をその場でキャスティングされて…
ーーー本当ですか?
加藤 当然、演技なんて出来ないですし、驚いて断ったんですけど、1 週間後に撮影に参加させていただきました。でもこの経験のおかげで、「南河内万歳一座のTVデビュー1 号は加藤だ」って内藤くんには言われてました(笑)。
ーーー舞台美術家界でもTVドラマ出演は唯一ではないでしょうか。(笑)
ーーーそして、いよいよ卒業となるわけですが…
加藤 ところがここで事件が起こりまして…。4年生の時にいきなり結婚が決められてて(笑)!
ーーーええっ!?
加藤 実家に連れ戻されて、ずるずると結納までいきました。沢山の結納品が並んでいる金屏風の前に座らされて、結納金を送られる儀式まで行われました。
ーーーお姫様みたいですね。豪華な品々が目に浮かびます(笑)。
加藤 でも大阪には賑やかで楽しい学生生活があり、「これで人生決まって一生家に閉じこもるのか」と思うと居た堪れなくなり…卒業前の 1 月にギリギリで婚約を破棄しました。それからえらい騒ぎになりましたが…結納倍返しとか(笑)。私は耳を塞いで大阪に戻り、大学で卒業公演に専念しました。
ーーーすごい経験ですね…
加藤 でもそれが終わるとまた両親がやって来て…。大阪で就職する気満々でしたが、父に「仕事は家にいくらでもある!」とはねつけられて実家に連れ戻された…という訳です。
そこから花嫁修行が始まり、たくさん見合い写真を見せられ、毎日和裁や着付けなどの習い事などやっていました。
ーーー…暗黒時代ですね。自由な大学生活からすると…、かなり気持ち的に塞ぎましたか?
加藤 あまり塞ぎはしなかったんですけど…婚約を破棄したこともあり、申し訳なかったという気持ちと親に歯向かうということがすごくツラかったんです。だから決められた結婚でもしょうがないかという気持ちもありましたね。まぁ、これもいいかー…みたいな。後から考えると親の勤めとして娘を安定した家に嫁に出すという事があったと思います。
ーーー親心ですか…それからどのように復活(?)されるんですか?
加藤 両親もうすうす勘づいていたとは思うんですけど、大阪で仕事があるたびに色々な理由をつけて遠出をしていました。大学卒業後も板坂先生に呼んでいただいたり、色んな劇団から美術を頼まれていたんです。でも軟禁状態だったので鈴鹿からこっそり通う毎日でした。この時期の私はいかに実家から脱出をするか?ということをずーっと考えていたと思います。
ーーーさながら冒険ですね。いつ頃から状況が変わりますか?
加藤 卒業時に今の協会の前身である舞台テレビ美術家協会の展覧会が東京と大阪、そして愛知でも開催されて私も出展しました。そしてその作品が信じられないことに大阪府知事賞をいただいたんです。両親も愛知の展覧会に来てくれて、当時の中部支部長の中山千吉さんにも色々と話を聞いてくれました。娘のやっている舞台美術というものを職業として理解しようとしてくれてたんでしょうかね。
ーーーそのタイミングでの受賞はスゴいですし、ご両親の話もイイ話ですね。
|| 関西の演劇人を総動員して本当にアパッチ族の集落を作りました。
ーーーところで、加藤さんご自身はいつ頃から職業として意識するようになりましたか?
加藤 大学時代から勢いだけで楽しく突き進んで来た感じなので、職業として意識する…ということはなかったですね。
ーーーなるほど。いつの間にか職業になってたという感じでしょうか?
加藤 そうですね。先ほども言いましたが、大学を卒業するかしないか頃から他の劇団にも色々と声をかけてもらえるようになり、切れ目なくやってたように思います。そしてデザイン料もいただけるようになりました。
ーーーなるほど。
加藤 ただ、自分の中でプロ意識を感じたことはありましたね。その内の一つが今も関わりの深いピッコロシアターとの出会いですね。私が大学を卒業した時にピッコロ演劇学校が出来て、恩師の秋浜先生が指導に入られました。そして先生に声をかけていただいて、ピッコロ演劇学校の2期生の大ホールでの公演のデザインを担当させていただくことになりました。卒業したての若手の自分に対して三重県からの交通費、ホテル代も出していただき、いやでもプロ意識を持たざる得ませんでした。
それから9年後にピッコロ舞台技術学校も出来て、板坂先生の下、講師の1人として関わっていくことになりました。今は板坂先生からバトンを受けて、渡邊舞というこの技術学校の卒業生の女性美術家をひきづり込んで続けています。
ーーー卒業時からずっとデザインをされてますが、アシスタントなどの経験はありましたか?
加藤 はい、板坂先生のところでお手伝いをさせていただきました。学生時代は授業内で色々と教わっていましたが、劇団仲間との作業に一生懸命で授業外での関わりはあまりありませんでした。ところが、卒業してから先生のアトリエに呼ばれるようになりました。私は鈴鹿で軟禁状態だったので、抜け出しては先生のお宅に泊めていただいて色んな現場を経験しました。
ーーー少しアシスタントも並行された時期があったのですね。
加藤 はい、板坂先生には本当にお世話になりました。先生は新劇の美術をよくされていましたが、私たちの世代はアングラの影を少し引きずったまま小劇場のブームを作った”アンチ新劇”だったんですよね。私はそれまでほとんど新劇方面とは縁がなかったんですけど、先生に付いて現場で勉強させてもらい、他のスタッフの人たちに顔と名前が浸透していきました。そうしてしばらくすると新劇の劇団からもお仕事をいただける様になりました。とにかくお芝居の美術をやりたかったからどんどんやり始めました。
ーーー良い流れですね。アシスタントをしているときの苦労とかありますか?
加藤 板坂先生で苦労したことは一切無いですね~、本当に。先生は本当にデザイン画がすごく美しくて…。諸先輩方に言われたのが、板坂イズムというものがあって、私の作品にもそれがあるって言われました。それから、私は未だに図面から何から道具帖は手書きですけど、ベテランの大工・背景さん達から若手の勉強になるって感謝されてます。これも板坂先生のおかげですね。
ーーー素晴らしいですね。
加藤 苦労したと言えば難波花月の現場でしたね。まず夜の 9 時仕込み開始で、女性の美術家・大道具、裏方スタッフが 1 人もいない時代です。棟梁がワンカップ片手に「ねーちゃん、ここどうすんねん?」って。相当怖くって・・・。
ーーーあの頃は怖かったですね…
加藤 はい。仕込みは喧嘩の様な騒々しさで、箱馬だけじゃなくて平台まで飛んでくる世界でした(苦笑)。当時の大道具さんは反社の人も道を譲るくらい怖かったですし、そもそも女性の入る世界ではなかったんですね。
ーーー当時に比べると今は女性の数も圧倒的に増えました。加藤さんは道を切り拓いた1人ですね。初期の頃にデザインした作品で印象に残っているものはありますか?
加藤 「日本三文オペラ」という作品です。戦後のアパッチ族(※戦後に兵器工場跡から不法に鉄屑を回収した人々の俗称)の事を描いた開高健さんの小説「日本三文オペラ」を戯曲化し、大阪駅の空き地にテントを立てて公演をすることになりました。テント屋さんに材料を協力してもらって、自分たちでイントレ組んで建て込みました。関西の演劇人を総動員したと思います。
ーーーかなりの規模ですね。
加藤 すごかったです。まずテントなのでイントレ組で建てて、照明を吊るための別のイントレ1セットと合わせて基礎としました。舞台装置はそのイントレを支えにして本当にアパッチ族の集落を作りました。
小説には瘡蓋のような家、古帯の様な緑色の苔むした湿気の高い道が…という描写があったので、装置はその辺で落ちてるものを拾ってきてくっつけ合わした様なもので、すごくリアリティーのあるものが出来ました。でも、拾い物ばかりで基礎以外はすごくお金もかからず(笑)。
どうせなら観客もアパッチ集落の一員として感じてもらおうと、その長屋を客席両脇に延長しました。集落の中にうどん屋とか飲み屋とかあって、その場面でセリフや出番のない役者の人たちや舞台のスタッフがその屋台の中で呑んで食って、舞台真ん中で起こっている芝居を見ているんですよ。とても面白かったです。
ーーー生きている舞台ですね。
加藤 そして最後に…実は舞台装置はトラック 2 台を両端に置いて、その荷台と、その間にキャスター付きのイントレを渡してその上に部落のセットを作ってたんですね。ラストシーンで、機動隊に集落を潰されて住人達が散り散りに逃げていくんですけど、実際テントの奥を開いて、トラックとその上に載せられた部落のセットが遠くに去っていく…という仕掛けをしました。
ーーー話を聞いてるだけでも背筋がゾッとします。実際に観ていると更に堪らなかったでしょうね。
加藤 本当に客席で観ていてもすごい演出でした。その後も京橋の JR 跡地でのテント公演と大阪城ホールの下の倉庫公演、ピッコロ劇団による兵庫県立芸術文化センターの劇場版公演と続いていきます。最近は芸大生が 2018 年にも公演をしました。
ーーーまさに演じ継がれるにふさわしい舞台ですね。他にもターニングポイントとなる作品はあります か?
加藤 人生のターニングポイントが 20 代後半にありました。まず一つが 1987 年のPQ(プラハ・カドリエンナーレ:4年に一度チェコ共和国のプラハで開かれる舞台芸術際)ですね。この時訪れたプラハは、まだソビエト崩壊で資本化する前で、静かな中世の雰囲気を残した街並みで素晴らしかったです。
この時私は日本ブースに出展しまして、両親もこちらに連れて来ました。娘の作品が世界の展覧会で展示されていて、世界中にこんなにも美術家がいる。そういう熱気を目の当たりにして、演劇・舞台美術という私の将来をついに認めてくれたと思います。
ーーーまさに人生の…ですね。
加藤 それから二つ目は同時期の南河内万歳一座の韓国公演です。
ーーー当時は韓国との交流はどうだったんですか?
加藤 当時まだ文化交流のない状態で、しかも大韓航空機撃墜事件が起こった直後で税関では大変でした。劇団として費用を抑えるために持てるものは手荷物として持って行ったのですが、そのため同行したカメラマンのフィルムや女優のメイク道具などが爆発物・変装グッズと関連されてかなり厳しく調べられました。また蜂谷真由美(※大韓航空機撃墜事件の北朝鮮実行犯の偽日本名)のために日本名の女性は特に警戒されました。
その他にも当時韓国では、まだ男尊女卑の風潮もかなり強く残っていて、あちらの現場には女性はもちろんあまりいません。でも私たちは女性も含めた劇団総動員で現地で材料を調達しての大道具製作や仕込みをしていたので、驚きを持って見られていましたね。私は装置に関して色々と指示を出しつつ動いてもいたので、現地 の人から”ワンダーウーマン”って呼ばれていました(笑)。あと塗料を買いに行った時ですが、塗料屋さんにデザイン画を見せたら、その場で調合してくれたりと色々と濃い時間でした。
ーーーお店には通訳の方も同行していたのですか?
加藤 いえ、まったく。塗料屋のおじさんとは色を扱うもの同士「アレ少し、コレも少々」みたいな意思の疎通が出来てすごく楽しかったですね。
ーーー面白いですね。公演の方は?
加藤 公演はお客さんがいっぱい来てくださって、多くの年配の方が日本語で「良かったよ~」ってロビーで褒めてくれました。高齢の方が日本語を使うことはかなり嫌な歴史を思い出させることかとも思ったのですが、我々のことをすごく温かく迎え入れてくださいましたね。
ーーーこれもイイ話ですね。
加藤 韓国の初公演がすごくうまく行って、翌年も呼ばれたんです。その後も北京・上海と海外で公演をすることになりました。中国もその頃はまだまだ全然今と違って、街全体もグレーとカーキー色に染まってて、街で調達できるものも質の限られたものしかありませんでした。大学の劇場で公演をすることになっていたのですが、驚いたことに「木材を調達したい」と相談すると、学校内に原木を製材するところがあるからそこで頼みなさいと。
それから塗料は、日本だったら水性でも乾いたら耐水性になりますが、向こうは乾いても水性だったんですね。役者が汗かいた手で壁をドンドンと叩いてると描いてあった部屋番号がどんどんぐしゃぐしゃになっていったりとか、床も日本だとパンチや地絣すりがありますけど、現地にあったこういう布で良いんじゃないかということで使用したらすぐダメになってしまい…(笑)。初日前日の会場でのオープニングパーティーの最中に緞帳を下ろして、俳優陣がおもてなしをしている間に、スタッフはみんなで緞帳裏でベニヤ板に張り替えたり際どいことの連続でした。
ーーー南河内万歳一座はそう考えると海外公演をする小劇団の先駆けですね。では熹朔賞受賞作品のことを伺いたいと思います。